「山の日」制定の経緯
「山の日」に対する国民の一般的なとらえ方としては、まず登山や山岳観光などがイメージされる。山の日制定のきっかけとして新聞報道などでは作曲家・船村徹氏の下野新聞への投稿(2008年)が取り上げられることが多いが、2002年の国際山岳年に、私もその一員だった国際山岳年日本委員会が制作したポスター「我ら皆、山の民」では“日本に「山の日」を作ろう”と呼び掛けている。そして国際山岳年はもともと「山」の国際年であったものを日本語訳が「山岳」年となったものだから、また山の日制定運動が山岳団体を中心に進められたこともあって、その時以来、山の日=登山のイメージが強まったものと思われる。したがってもともとの趣旨を考えると、山の日は山の環境や山の文化、山麓の暮らしを保全し、その将来を考える日、具体的には山の問題すなわち森林の問題を解決するきっかけの日と考えるべきである。
私は国際山岳年のクロージング・シンポジウム『我らみな山の民』で、山岳地の管理と森林の管理は一体であるという趣旨で山地・森林の歴史と実態、その多面的機能、山地、特に奥山に対する私たちの付き合い方などを報告している。
山の恩恵は森との共同作業で
さて、山の恩恵とは何だろう。日本では山地と森林が共同して発揮している多面的機能であると思う。
まず、日本の山地の特徴として(1)標高が高く斜面が急傾斜である、(2)そのため、河川の上流・源流となっている、(3)標高が高いので平地に比べて気温が低く、降水量が多い、(4)大部分が急斜面なので人の干渉が少ない、などが挙げられよう。
これらの特徴と樹木を中心とした植物・動物・土壌の複合体である森林の相互作用として山は各種の多面的機能を発揮している。すなわち森林が侵食営力の大きい急斜面の崩壊・土砂流出を防止して山がちの国土を保全するとともに水質を浄化することによって、山は
@雨や雪を貯蔵して大量の水資源を涵養し、私たちに良質の水を供給している。
A人の干渉が少ない豊かな森が野生生物の宝庫となり、世界的にも保護価値の高い生物多様性を保全している。
B自然が豊かで変化に富み、眺望が良い環境によってハイキングや観光などのレクリエーションの場となっている。
C趣味と健康増進を兼ねた登山やトレッキングなどでさえも森の存在がその魅力を増していると思われる。
また、BCを合わせた山と森の複合場は子供たちの環境教育・情操教育・体力づくりの場としても役立っているだろう。
さらに、山は人が近づきがたく天に近い場所であるため、神の居場所として信仰の対象となり、その山の神の霊力を身に付ける場所として修験道の修行の場所となり、また人々の礼拝(らいはい)の場となって地域の人々の伝統や文化を形成してきたが、その多くは巨木の集団や深い森が持つ神秘性と一体であることによって育まれたものと思われる。このように、山と森は一体となってその多面的機能を発揮している。
奥山の課題―生物多様性の保全
そのような山に親しみ、山の将来を考えるとき、現実にはどのような課題があるかを考えてみる。本稿では高山や登山のイメージが濃い「山の日」に合わせて「奥山」の課題を整理してみる。
現在の奥山の課題のうち特に緊急を要するのは、自然環境の厳しい高山帯に生息する貴重な動植物の保護に代表される山の生物多様性の保全である。多く動植物が絶滅危惧種や希少種に指定されている。最も懸念される保全上の障害はシカなどの食害である。シカの異常繁殖の原因としては多くが挙げられ、その防除対策についても多くの議論がなされ、実行に移され始めたのでここでは詳しく取り上げない。各種の対策を強力に進めるほかないだろう。
また、「山の日」制定の効果として登山客や山岳観光客の増加が見込まれており地元にとっては喜ばしい面もあるが、奥山の環境、特に高山帯や高層湿原の植生が劣化することだけは避けてほしいと願っている。山の管理に携わる者はそのことも強調してゆくべきである。
なお、奥山での砂防事業や治山事業については防災の観点だけではなく、自然との調和も重視した事業が期待される。下流河川や海岸での侵食が加速している現在、災害の危険を排除しながら土砂を下流へ流すことも重要である。
一方長期的に見て深刻な課題は地球温暖化の影響である。温暖化はニホンジカやニホンザルが高標高地に生息域を広げ、高山帯まで登ってきて高山植物を食い荒らしライチョウを襲う原因の一つなっているが、さらに重要なことは日本の森林生態系全体に影響を及ぼすことであろう。特に冷涼な気候を好む亜高山帯の針葉樹林や冷温帯のブナ林の分布範囲の縮小、さらには西日本の高山に残存する孤立したブナ林の衰退などが懸念されている。
林業は合理的な山の利用法
ところで「山の日」について、林業の立場からはどのように考えたらよいのだろうか。すでに述べたように、山地は急斜面で構成されているため人が近づきがたく、そのため自然が残されているのである。一方で開発が難しく、森林として維持する以外の土地利用に適さない場所でもある。その森林を私たちの暮らしに役に立つように利用するのが林業である。
すなわち木材生産は山の特徴を生かして使うことのできる最も有効な土地利用法であり、当然のことながら、D木材などの林産物は山の恩恵の重要な一つなのである。しかも木材はわが国自前の再生可能な資源であって、すでによく知られているように、その利用は温暖化の防止にも役立つ持続可能な社会の維持にふさわしい資源である。
しかしながら一般的には、木材の利用がすでに述べた森との共同作業で発揮されている山の恩恵の@やAや、山地災害を防止する森の恩恵を犯すのではないと懸念されている。
したがって、適切な林業はそれらを犯さないことを人々に保証し、そのことを人々に伝えていく必要がある。具体的には、例えば森林認証制度を利用するなどして、木材やその加工品の消費者に現代の林業が持続可能かつ適切に行われていることを説いていく方法がある。生物多様性保全などを重視する森林認証制度が目指す森林管理は、木材の利用を含む山の恩恵を最大限発揮させる最も有効な手法であることは前号で示したとおりである。
率直に言って、初めての「山の日」に対する森林・林業界の反応は期待外れであった。日本百名山の大部分が国有林内に存在すると広報した国有林でも、夏休みの通常の子供向けイベントが開催された程度である。
<それは、本格的な「山の日」制定運動の開始から国民の祝日として法案が成立するまでが異例の短期間であったことや、森林にかかわる国レベルの行事が「みどりの日」、全国植樹祭、全国育樹祭などすでに多数存在することなどによる。>
しかし、現代の林業に一層国民の理解を得る機会は多いに超したことはない。山を愛し、山に親しもうとする人々に林業の本質を知ってもらう機会として「山の日」を積極的に活用する手もあるだろう。今から2回目の山の日の活用法を考えていくべきである。
私たち日本人は周囲を海に囲まれた「海の民」であると同時に山に囲まれて住み、木材という山の恵みを存分に生かして発展してきた「山の民」でもある。私たちの信仰心に起源する日本文化の一角をなして山に鎮座している社寺・仏閣の建物群も、山の恵みであり林業の対象でもあるヒノキやスギの巨木によって造られているのだから。