『森林飽和』と土砂流出の現状

●以下は、雑誌『海岸』 第53巻(平成28年7月20日発行)に掲載された文書です。
  

  

『森林飽和』と土砂流出の現状


はじめに

 鳥取県の皆生海岸に初めて離岸堤が建設されて半世紀近くになるが、海岸侵食は一向に治まる気配がない。筆者は東日本大震災の巨大津波で壊滅した海岸防災林の再生事業や、マツ材線虫病の蔓延や広葉樹の侵入で荒廃が進む各地の海岸林の保全活動にかかわるようになって砂浜海岸を訪れる機会が多くなった。そこで必ず目にするのは汀線を覆う大量の消波ブロックである。かつて見たこともなかったヘッドランドと称するものも各地でみられるようになった。海岸は半世紀前より明らかにやせ細ったように見えるが、その海岸侵食の原因の究明やその対策については当然専門家の皆様によって検討されていると思う。
 筆者はおもに山地の土砂災害防止対策や森林の水循環への影響の研究・教育に携わってきたので、海岸工学では門外漢である。しかし、僭越とは思いつつも、2012年に「海岸侵食の進行には、山地の森林の変化も影響しているのではないか」との考えを述べさせていただいた。そして今回、本誌のご厚意でその概要を寄稿させていただけることになった。海岸侵食問題をこの観点からもご検討いただければ幸いである。   

  

1.森林飽和

 日本の森林の現状あるいはその変遷については、現在も多くの人々が誤解していると筆者は感じている。彼らは、日本の森林は戦後の混乱期、その後の列島改造・高度経済成長期に乱伐が続き減少してきており、間伐遅れの人工林でも里山でも森林は荒廃している。私たちは貴重な動植物を護り、生物多様性の保全のためにも自然林を護り、植林しよう…と考えておられると思う。多少森林に関心を持つ方は、最近は戦後植栽された人工林が成長し、伐採期を迎えている。シカの食害が増え、里山は使われなくなって荒れているというようなことをご存知だと思う。
 実際は、森林は戦後一貫して(減ることなく)増加し続け、現在日本には森林資源が豊富に存在する。中には老齢化した森林もあって光合成量、すなわち二酸化炭素吸収量は低下傾向にある。一方で森林の洪水緩和機能や山崩れ防止機能は十分発揮されていると言っても過言ではない…筆者は日本の森林のこのような現状を『森林飽和』と表現して2012年に出版した(NHKブックスNo.1193)。その後の知見も踏まえて、以下に日本の森林の変遷を簡単に紹介しよう。
 ・先史時代、アジアモンスーン下の日本列島には夏の豊富な降雨と太陽エネルギーに恵まれて豊かな森林が広がっていた。そのため縄文人は農業を発明しなくともクリやドングリなどが十分に得られ、(土器を発明したこともあって)森林や水辺の豊富な資源を巧みに利用して世界で最も豊かな狩猟採集民族文化を築いていた。
 ・その後、畑作に比べて単位面積当たりの生産力(=人口収容力)が格段に大きい稲作が伝来すると、人口が増加するとともに生産力に余裕が生まれて権力が発生し、古代の都市が成立した。しかし、里地里山システムに基づく稲作に必要な農用資源(肥料、農具等の材料)や人々の燃料資源、さらには都市建設の資材として森林は過剰に利用された。そのため日本の森林は古代都市の周りから劣化していった。
 ・鉄製の農機具や二毛作の普及によって生産力がさらに増大した戦国時代以降人口は急増して、江戸時代には3000万人を超えた。それでも資源の大部分は森林資源であったため、里山の森林は全国的に劣化した。その状況は基本的には化石燃料や化学肥料などを使いだした1960年代に至るまで続くのである(図1)。
 ・縄文時代以来日本人は森林を知り尽くしており、スギやヒノキがもっとも使いやすい材料資源であり、クヌギやコナラは20年もすれば伐採・利用できる有用な早生樹であることを知っていた。そこでスギ・ヒノキがなくなればそれらを造林し、森林を使い尽してしまえば、クヌギやコナラあるいは荒廃地でも育つマツを植えた。さらに言えば、日本人は森林資源だけでなくあらゆる自然資源を、工夫を凝らして使い尽して高度な日本文化を築いてきた。しかしながら3000万を超える人口を持続可能に維持することは難しく、森林は江戸時代には完全に劣化・荒廃してしまったのである。その結果、毎年どこかで山崩れや洪水氾濫が発生し、「治山治水」の考え方が生まれたことはよく知られている(図2〜図7)。
 ・明治になって西欧文明が移入され産業が発達しても、その燃料などを森林資源に頼る時代は続いた。筆者は明治時代中期が史上で最も森林が荒廃していた時代だと推定している。そこで政府はいわゆる治水三法(河川法・森林法・砂防法)を制定して近代的な治山治水事業に乗り出したのである。しかし、「戦争の半世紀」とそれに続く戦後の混乱期までは森林の回復ははかばかしくなかった。
 ・化石燃料や化学肥料など地下資源を本格的に利用し始めた1960年代以降、日本人は有史以来続けてきた森とのつながりを捨ててしまった。その頃から木材輸入の自由化が始まり、安価な外材の急増により林業も衰退した。その結果、農用材や薪炭材を採取した里山の雑木林も拡大造林によって植栽されたスギやヒノキの人工林も(共に伐採されることなく)成長を続け、森林の蓄積は年々増加するようになった。現在、日本の森林の蓄積(資源量)は明治時代中期の3〜4倍に増加していると思われる。日本人はほぼ400年ぶりに豊富な緑を取り戻したとも言える。筆者はその状態を『森林飽和』と表現したのである(図8)。   

  

2.森林飽和の影響

 森林の蓄積が増加することは良いことである。通常森林が伐採されると山地では山崩れが発生し、平野では洪水が氾濫するとされる。森林の蓄積が増すことはその逆であるから、山崩れや洪水氾濫が少なくなるはずである。しかし、土砂災害は相変わらず多く、昨年は常総市で鬼怒川が氾濫した。実は、森林の回復は徐々に進むので、その影響は直ちに明確には認識できない。以下、森林の蓄積が増加した影響を簡単に記述する。
 ・当然ではあるが、森林生態系が変化した。人工林の多くは伐採適期に達したが、未間伐のまま放置されている森も多い。伐採されなくなって放置された里山の広葉樹二次林ではタケ類や低木・草本が生い茂り、奥山の様相を示している。当然奥山の動物が里山まで降りてきて人と出くわす機会が増えた。さらに、シカの食害がはなはだしい。
 ・各地にみられたはげ山はほぼ姿を消し、シカの食害地などを除けば、表面侵食による山地からの土砂流出はほぼ消滅した。
 ・山崩れは通常山腹表層の風化土壌層が崩壊する「表層崩壊」と、それより深い基盤岩や厚い堆積層が崩壊する「深層崩壊」に大別されるが、森林の成長により表層崩壊も激減している。これは樹木の根系の成長によりおもにすべり面におけるせん断抵抗力が増加したためである。
 ・表層崩壊起源の土石流も減少しているはずであるが、(温暖化の影響もあると言われている)降雨強度の増加によって崩壊土砂や渓床堆積物のかく乱が激しくなっており、土石流については今後も警戒が必要である。
 ・水源地域での森林の成長により水源涵養域での雨水浸透能力は向上し、いわゆる森林の洪水緩和機能も向上している(しかし、種々の理由により流域レベルでの確認は困難な仕事となっている)。他方、森林の成長による樹冠遮断蒸発量と蒸散量の増加は水資源の消費を意味する。したがって筆者は、雨水浸透能力の回復した森林では適切な木材生産により樹冠量の減少を図るべきだと主張している。
 なお、表面侵食の消滅、表層崩壊の減少は河川への流入土砂量の減少を意味する。この問題は事項以下で取り扱う。   

  

3.海岸防災林の再生

 2011年3月11日に発生した東日本大震災では巨大津波により東北地方の太平洋沿岸を中心に1,800haに及ぶ海岸林が壊滅的被害を受けた。海岸林の大部分は保安林に指定されているので林野庁は海岸防災林再生の基本方針を決めるため、同年5月に「東日本大震災に係る海岸防災林の再生に関する検討会」を立ち上げた。筆者はその座長を務めることになり、改めて海岸林を見つめなおす機会を得た。
 海岸林はおおむね江戸時代以降、飛砂害防止のために造成された人工林である。当時の飛砂害は現代の私たちには想像もできないほど激しいものであった。江戸時代の人々は砂浜海岸で生育しうるほとんど唯一の高木とも言えるクロマツを見つけ出し、苦労して海岸林を造り上げた。そしてそれは海岸地方での里山林の役割を担ってきた。マツの枯れ枝や灌木、松葉の採取が頻繁に行われ、その結果林内には豊かな土壌は発達せず、それはマツの生育にとって好都合であった(図9)。
 現代の海岸林の大部分は大正時代〜昭和時代初期に確立した堆砂垣・静砂垣の工法を用いて造成され、1960年代にほぼ完成した。同時にその頃から飛砂害の記憶は失われていったと思われる。
 しかしながら海岸林は、飛砂害以外にも強風害、塩風害、高潮害など海岸地域特有の自然災害を防ぎ、東日本大震災後は津波減災効果もあるとされて、巨大津波災害の多重防御の一翼も担うようになった。さらに海岸林は“白砂青松”の美しい景観を形成し、保健休養機能を発揮し、海浜生態系を保全して生物多様性に貢献するなどの多様な機能を持っている。そのため宮城・岩手・福島3県を中心に、マツを主体とした健全で強固な海岸林の再生を目指して、海岸防災林再生事業が展開されている。   

  

4.森林の管理と海岸の環境

 海岸事業に携わるなどのごく一部の関係者を除けば、現代日本にかつての飛砂害の激しさを知る人は極めて少ない。しかし江戸時代には飛砂害が激しかったという。なぜ江戸時代に飛砂害が激しかったのだろうか。
 筆者は前述した日本の森林の変遷から以下のように推測した:人口の増加によって江戸時代には全国的規模で里山の森林が劣化し、山地・丘陵地から表面侵食土砂や山腹崩壊土砂が大量に河川に流出した。そのため河川では川床が上昇し、洪水の氾濫が激しくなった。さらに土砂は河口から海に流出し、沿岸流によって砂浜海岸に到達した。その結果、高波によって大量の砂が海岸に打ち上げられ、その砂が強風によって内陸に運ばれて飛砂害を引き起こした。
 土砂が沿岸海域に大量に流出した形跡はほかにもある。かつては河口閉塞が激しく、浚渫や河口突堤の建設などその防止対策が河川改修事業の重要な項目であったと言われる。この事実もその一例である。ほかにも砂丘の発達の事例が日本海側で多数知られている。それも室町時代以降あるいは江戸時代以降という話がある。筆者は東日本大震災に関する資料の中に貞観津波発生時の仙台平野での海岸線の位置が現在の海岸線より1q程度内陸側にあることを示す資料があることに気が付いた。つまり、現在までに海岸線が1q海側に進出するほど土砂が海岸に堆積したことになる。しかるに仙台平野でも現在は海岸侵食が顕著である。
 これらの情報を総合すると、日本の森林が劣化していた江戸時代から昭和時代中期まで、山地では土砂災害、平地では洪水氾濫、海岸では飛砂害が激しく、その時代に砂浜海岸は堆積傾向が続いたと筆者は推論した。このことは、森林の劣化は山地地域や河川の氾濫原だけでなく砂浜海岸や沿海を含む国土環境全般に影響することを示すとともに森林管理の大切さを示すものと言えるであろう。
 1950年代以降、日本各地に巨大ダムが次々に完成した。取水堰や砂防ダムも増加した。さらに1970年代までは河川での骨材採取も盛んだった。そのため一般には河川から海洋への土砂の流出は減少していると認識されている。しかし、森林が回復して土砂生産そのものが減少し、それが海岸の環境をも変えている事実はあまり認識されていない。
 現在、横断構造物が少ない河川も含めて河床の低下は全国の河川で著しい。これは森林回復の影響であり、その当然の帰結として海洋への流出土砂も少なくなっているとみて誤りはなかろう。ダムのある河川も含めた詳しい検証結果(『森林飽和』第五章第六節参照)は省略するが、近年の海岸侵食激化の原因の一つに山地森林の充実による土砂生産の減少の影響を挙げることができると考えている(図10)。
 昨今地球温暖化により豪雨の規模と頻度の増加が懸念されるが、山地からの土砂の生産・流出が顕著に増加する兆候はない。また、山地荒廃を招くような、かつて見られた乱暴な伐採が今後大規模に行われることも考えにくい。したがって、河床の低下傾向や海砂浜岸の侵食傾向はこれからも続くものと思われる。そして、このような観点から今後も海岸侵食の防止対策が海岸事業での重要な施策であり続けると推測している。


図の表題と注釈

図1:森林利用及びその他の土地利用の変遷(依光(1984)の図を基に作成)。江戸時代に森林の劣化が進行している。
図2:1950年ごろの岡山県玉野市郊外の荒廃山地(はげ山)(岡山県(1997)より)。表面侵食が目立つ。
図3:20世紀初頭の多摩川源流域(東京都水源林、現山梨県甲州市塩山)の草山(東京都水道局水源管理事務所)。樹木は尾根筋にわずかに残る程度。
図4:1950年ごろの青森県十和田市の荒廃山地(青森県所蔵)。表層崩壊の跡地が見える。水源林造成のため植林地に向かう女性たち。
図5:歌川広重「東海道五十三次」(1833)より「日坂 佐夜ノ中山」(現静岡県掛川市佐夜鹿)。荒れ地でも生育可能なマツとはげ山が見える。
図6:平田魯仙「暗門山水観」(1862)より「砂子瀬村筏橋之図」(現青森県中津軽郡)(青森県立郷土館提供)。白神山地に続く里山にも豊かな森はない。
図7:江戸時代後期の里山の様子(大蔵永常「農具便利論 下」、日本農業全書15(農山漁村文化協会)より)。立木地はわずかで草地が目立つ。
図8:日本の森林蓄積量の変化(林野庁資料)。戦後、一貫して森林資源量は増加している。
図9:砂に飲みこまれる民家(1933年、山形県)(国土緑化推進機構(2009)より)。かつて砂浜海岸では飛砂害が激しかった。
図10:森林管理の変遷と国土(海岸)環境の関係。今後は侵食傾向が続く恐れ。   

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